開院して6年が過ぎました。
多くの方に利用していただき、また多くの方に支えていただきここまで来ることができました。
関わった全ての方にこの場を借りて感謝申し上げます。
あっという間の6年でしたが、当初の赤ちゃんが年長さんに、小学生の子供たちが中学生のお兄さん、
お姉さんになっているのを見ると月日の流れを実感し、成長していく姿をみて嬉しく思っています。
まだまだ不十分なところもありますが、今後とも地域で育っていく子どもたちと
子育てをされているお父さん、お母さんのお役に立てるように精進していきたいと思います。
当院は小児科の標榜ですが特に年齢の制限はありませんので、いつまでも来ていただいて大丈夫です。
いつか、いま診ている子どもたちが親になって受診してくれたら、
きっとすごく楽しいだろうなと勝手に想像して毎日を頑張っています。
今後ともどうぞ宜しくお願い致します。
令和3年8月
親とこどものクリニックohana
院長 松本 享
松本 享 Susumu Matsumoto
日本小児科学会
小児科専門医
長い文章になります。経歴は上の通りですが、どんな人生を送って今に至るのかをご紹介することで、
私の人柄を理解するのに役立てばと思い書いてみました。拙い文章ですが、よろしければ読んでみてください。
私の両親の出身は長崎県ですが、私はその両親が仕事で移住した千葉県で育ちました。
小学、中学は千葉県の公立の学校へ通い、高校は県下2位の公立高校にまず受かるだろうという成績だったにも関わらず、試験を失敗してしまい、滑り止めの私立高校へ行きました。
大学受験の際は医学部を考えなかったわけではなかったのですが、成績が足りず、そのときはあっさりとあきらめていました。高校受験で失敗したのが無意識のうちに無難な理学部を選択させたのかもしれません。
大学卒業後は、そのまま大学院に進みマイペースに研究を行う日々でした。
そんな中、転機が訪れました。研究室の教授のつながりで築地にある国立がんセンター研究所に出向のような形で一年半研究をさせてもらいました。そこでは学生のマイペースな研究と異なり、朝早くから夜遅くまでずっと研究の日々でした。
本当の研究生活というのを初めて実体験したことになり、研究結果が出れば上から評価され、それは嬉しいことでした。しかし、私にはそれが世の中につながっていることがなかなか実感できず、自分がどんどん消耗していっている感覚がありました。慢性的に胃のあたりが痛かったのを覚えています(これは後に十二指腸潰瘍であったことがわかりました)。
新橋駅で終電を待ちながら、これが自分のやりたかったことなのだろうか?残りの人生をこのままでいいのだろうか?と、考え始めており、ちょっと遅いですが初めて自分と真正面から向き合う事になったのだと思います。
とはいえ、すぐに何かが変わるわけではなく、その後「人生」というのを悶々と考えている日々の中、偶然、本当に偶然に「医学部編入学」という言葉を耳にしました(剣道部の先輩の家での飲み会のときでした)。
子どもの頃に「医者になりたい」という想いがあったのかどうか定かではありませんが、「医学部」という言葉を聞いてからどんどん想いが強くなり、ついに医者になるという決意をしました。
いままで自分の進路についてきちんと伝えたことのなかった両親に会いに千葉に戻り、大学院を退学して医学部を受験したい旨を伝えました。両親は驚いたもののその場で了承してくれました。とてもありがたかったです。
短い準備期間でしたが、面接を重視していた岡山大学に合格し念願の医学部生になることができました。学生証にある医学部という文字にとても感動したことを覚えています。
この当時から医者になるなら小児科医と決めていました。自分より小さいのに、目をキラキラさせて生きている子ども達のために、残りの人生を費やすのは価値があるし、また遣り甲斐を持ってできると思いました。
子どもの成長を家族と共に見守り寄り添っていける開業医にとても魅力を感じており、研修をそれを見越してうけてきたつもりです。私は比較的若い年齢での開業となります。ここからがスタートと思っています。
地域の皆様のお役に立てるようなクリニックにしていきます。一緒に育てていっていただければ幸いです。よろしくお願い致します。
親とこどものクリニックohana 院長 松本 享